今週は日曜日に更新します。
この前、正月の挨拶で実家に1年ぶりくらいに行って、その時ふと、実家から、おじいちゃんおばあちゃんの家の香りがしたんですよね。
あぁ、実家からこの匂いがするような年齢になったんだなぁとしみじみ思いつつ……
あの匂いってなんなんでしょうね。その昔おじいちゃん・おばあちゃんの家から匂ってきたあの香り。カビくさいとかではないんですよね、優しい匂いなのよ。
まぁ築30年の木造部分もある家だし、そりゃあ匂いもするのですが、ふとあの匂いを嗅ぐと、自分が孫として祖父母の家に遊びに行った日々が懐かしくなりますよね。
ドラえもんやクレヨンしんちゃん、ちびまる子ちゃんにサザエさん、様々なファミリー漫画におじいちゃん、おばあちゃんが出てきますが(私は特にドラえもんののびたのおばあちゃんのエピソードが好きです)、どの時代になっても、祖父母の思い出というものは普遍的で尊いものですよね。
というわけで今日のテーマはこちら。
「わたしのおじいちゃん、おばあちゃん ~ファミリーヒストリーを語ろう~」
たまにはハートウォーミングな日記を書こうかなと思いまして。あんまりおもしろい事は書けないけど、まぁこういう回があってもよいかもしれません。
さて、私の祖父母は4人とも既に亡くなっており、もう会うことはできません。でも、ふとした匂いや写真から思い出す祖父母の記憶は未だに温かく、鮮明なものです。
今日は4人の祖父母との思い出を振り返りつつ、そこから感じた死生観についてもちょっと語ろうと思います。
①父方のおばあちゃん
以前姓名判断の回で登場した、父方の祖母です。
ぱわふる、ふるふる、ふるねーむ - つれづれ草のクリームパスタ (hatenablog.com)
父の姓名判断の画数が悪くて、父がダメな人間になってしまったと後悔していた祖母。
まぁホントは、父がただヤベーやつ(時には室伏のように - つれづれ草のクリームパスタ (hatenablog.com))なだけで、姓名判断関係ないんですけどね。
おばあちゃんは私が5歳の時に亡くなったので、あまり記憶が残っていないのですが、それでも遊びに行くたびに大量のエビフライを作ってくれた記憶がうっすらあります。
どうでもいいですが、おばあちゃんってすきあらばエビフライを作ってきますよね。
ハンバーグとか唐揚げとかもあると思うんですけど、なんかどの家でもおばあちゃんはエビフライの印象が強いです。その世代の価値観によるものなのでしょうか?
ちなみに父方の祖母の遠い祖先ですが、村上水軍という瀬戸内海の海賊だったそうです。そのせいか、この血筋は異常にガタイがよく、水泳オリンピック選手も輩出しています。お察しの通り私が190cmとワールドクラスの体格をしているのも、この家の血筋です(父185cm、祖母170cm)。
…
…
祖先海賊ってワンピースやんかwww「D(でっかい)の意思」やないぞwww
さて、父方の祖母は、優しくて我慢強い人でした。先ほど書いた姓名判断でもそうでしたが、結構スピリチュアルなところがありまして。若い頃父が重病で体調を崩した時に、おばあちゃんは様々な所で父の体調回復を祈り、そのまま宗教にのめりこんでしまったそうです。シリアスな話なのであまり詳しくは聞けていませんが、亡くなる前も、教祖の指示で病院に行くのがかなり遅くなり、癌の全身転移で最後苦しんだそうです。
宗教は人を救うためにあるもので、もしかしたら祖母もその宗教を信じることで何か救われたのかもしれませんが、それが祖母の人生にとって正解であったのかは未だわかりません(なんの宗教であったかはふせておきましょう)。
②父方のおじいちゃん
父方の祖父は、自衛隊につとめていました。父に対してはもっぱら厳しかったそうですが、我々孫にとっては、とてもやさしいおじいちゃんであった記憶があります。
祖母が死んでから8年ほど1人で暮らしていましたが、私が中学に入ったころ、長年の喫煙がたたって肺気腫がすすみ、1人暮らしが難しくなり、私が中1の秋に実家の近くに引っ越してきました。
それまでは時々しか会えない祖父でしたが、近くに引っ越してきてからはよく会いにいき、よく話をしました。
近くに来て知りましたが、彼の1日の生活はのほほんとしたものでして。昼頃起きて散歩がてらお買い物⇒夕方からウイスキーを水割りで飲みながらお惣菜を食べ、煙草をすい、夜はテレビをつけっぱなしにしながら、いつの間にか寝ている。そんな毎日。
まぁ刺激はないけれど、穏やかなもんだなぁと中学生ながらに思っていたものです。
そんな中、今も忘れない中1の12月28日の昼過ぎ、母から「祖父が死んでいる」という電話を受けました。
それまで何の兆候もなかったので衝撃ではありましたが、よくよく聞いてみると、「こたつで寝ていると思って声をかけたら返事がなく、亡くなっていた」とのことでした。
ここからは警察と医者の診断もあわせての推察になりますが、事件性はなく、おそらく「こたつに入りながら、テレビを見ていたら寝てしまった⇒こたつが節約タイマーになっており朝方にスイッチが切れた⇒冷えた⇒心臓か脳血管に何か起きて亡くなった」とのことでした。
わたしも急いで祖父の家に行きましたが、その顔は本当にただ寝ているようであり、本人もきっと寝ながら亡くなったんだろうなと思いました。まだ77歳ではありましたが、「こたつで寝ていたら亡くなっていた」ってかなり幸せな亡くなり方ではありますよね。
後日、1月1日に祖父からの年賀状が届きました。きっと12月25日までに出していたのでしょう。手書きで書かれた「今年も1年よろしくお願いいたします」をみて、切ないけれどちょっとしたサプライズを受けたような不思議な気持ちになりました。亡くなった人から手紙が届いたのはこれが最初で最後の経験です。
③母方のおじいちゃん
母方の祖父はいわゆる天才で、漫画に出てきそうなスーパー爺さんでした。
逸話を列挙しましょう。
***
●旧帝大に飛び級で入学⇒卒業後(戦前)は川崎重工で造船業の仕事につく
●ラジオ外国語講座で、英語・フランス語・ドイツ語をマスターし、4ヶ国語を話した
●4ヶ国語を駆使し、淡路花博で最年長ボランティア通訳として活躍、ラジオに出演する
●80歳を過ぎてから、原著で聖書を読むことにハマり、教会の勉強会に参加。
●90歳になっても、散歩で数km歩いて教会まで移動し勉強会に出席していた。
***
改めて文字にしてみると、えぐい。
特に、ラジオ講座で4ヶ国語マスターするの、人外すぎる…。
あれで言語って習得できるんやね、意味わからんわ。
まぁそんな天才の祖父だったのですが、よく言えば非常にクールでサバサバした人間、悪く言うならばドライな現実主義者でした。孫がきても、「おー、よく来たな。ゆっくりしていけ」とだけ言って、それ以上は何も絡んでこない。
あと、言うことを聞かないと、孫でも余裕でしばいてくる(時には室伏のように - つれづれ草のクリームパスタ (hatenablog.com))。店員さんとかサービス業の人に対しても淡々としていて、あまり人間味を感じない人でした。
「頭が良すぎるとこんな感じになるのか」と幼心に思ったものです。
ただ、その凛とした佇まいは非常にかっこよかったので、祖父のように、クールで頭の切れる人間になりたいと日々憧れていたことを覚えています。
先ほど書いたように、祖父は90歳の時点でも大きな病気はほとんどなく、頭もしっかりしていて、祖父の家に遊びに行くと、父や姉と対等に経済の話をしていました。
「この人はきっと100歳まで生きるだろうな」誰もがそう思っていました。
結論から言うと、祖父は94歳でこの世を去りました。
晩年の2年間、彼は寝たきりになっていたのです。その理由は頚髄損傷。そう、92歳のある日、彼は庭の手入れをしようとしたときに段差に誤ってひっかかり、こけて、首から下が動かなくなってしまったのでした。
祖父は亡くなる直前まで認知症がほぼありませんでした。頭がしっかりしているにも関わらず体が動かなくなってしまった2年間の入院生活、それはどれほどの生き地獄であったでしょうか。
私は忙しいことを理由にして、祖父の面会に行きませんでした。正直に言うと、その状態の祖父にどう声をかけたらいいのかわからない、また祖父の姿をみることに耐えられなかったのです。
そして2020年にコロナが流行。その年、祖父は2年の闘病生活の末に亡くなりました。
当然ながら当時は面会も禁止となっていたので、私は怪我をした祖父に一度も会うことなく祖父の死を迎えました。これに関しては正直後悔しています。大切な人には、会える時に会うようにする。人生の教訓ですね。
④母方のおばあちゃん
唯一の男孫であったこともあり、私は非常に可愛がってもらいました。
趣味は声楽と帽子集め、日曜日は毎週必ず教会に行き、羽生結弦の写真集を買いに風の強い中外出して転倒する、そんな母方の祖母。お嬢様気質でいつもこぎれいにしていて、ちょっぴりわがままなところはあるもののおっちょこちょいで可愛らしい祖母でした。
1つエピソードを紹介しましょう。
母方の祖母は何かあったとき、診てもらったお医者さんに「心付け」という名の謝礼金を、治療費以外に渡す習慣がありました。
もちろん、お医者さんは断ろうとするんですが(当然謝礼金の有無で治療内容に変化はないそうです)、うちの祖母は何とかしてお医者さんに謝礼金を渡さないと気が済まない人で、断ろうが何しようが、無理やりお医者さんの白衣のポケットに謝礼金をねじこんで診察室を去ってしまうのです。
さて、ある年の末、母の付き添いのもと、祖母はかかりつけの先生の外来を受診しました。いつも通り、お礼の封筒を用意する祖母。やれやれという顔でみる母。
診察終わりのこと
祖母「これ、もらってください!!」
医者「あっ、ちょっと、こういうのは受け取れません」
祖母「いえ、もらってください!」 (ねじこんで診察室を出ていく)
支払いを待つ祖母。
祖母「無事もらってもらえてよかったわ」
母「(無理やりねじこんだだけじゃないの…)」
…
…
祖母「あー!!!!!渡す袋間違えたぁぁ!!!」
なんと、私に渡す用のお年玉を間違ってお医者さんのポケットにねじこんだことが発覚しました。
「お年玉 ばあばより」って書いてある袋もらって、お医者さんびっくりしたやろなwwwwwwww
ちなみに金額は一緒だったので、私は後日、「御礼」と書かれた封筒を母からもらいました。何の御礼やねんwwwwww
そんなおちゃめな祖母も、祖父が寝たきりで入院してから徐々に1人暮らしが難しくなり、やはりコロナが流行した2020年に施設に入ることになりました。最後まで1人で暮らしたいといってきかなかった祖母は施設に入ったあと、みるみる元気がなくなり、祖父が亡くなった3か月後に後を追うように眠るように亡くなりました。
祖母もコロナのせいで面会できず会えずしまいでしたが、亡くなる前の日に夢に出てきました。スピリチュアルなことですが、これはきっと祖母が会いに来てくれたのかなと思っています。祖父はドライだから会いに来てくれませんでした(笑)
というわけで、つらつらと4人の祖父母について書いてきました。
長寿だった分、母方の祖父母との思い出が多いのですが、父方の祖父母にも優しくしてもらった記憶が強く残っており、大切な思い出です。
最後の亡くなり方を考えると、父方の祖父の「こたつで寝てるうちにポックリ亡くなる」はベストな気がしますよね。それだけ鑑みると、しんどい思いをしながら長生きすることが必ずしも幸せであるとは限らないのかもしれません。
まぁ、その一方で、母方の祖父母には結婚も報告できたし、曾孫も写真で見せることができました。祖父母が「最後はしんどかったけど、孫の幸せな報告を聞けたし長生きしてよかった」と思ってくれていたならいいなと思います。
2020年の秋、母方の祖父母が相次いでなくなり、母の実家が解体⇒売り出されることになりました。最後に母の実家にいって遺品を整理しにいった帰り道、いつものように側道に停めた母の車で出発しようとした時のことです。
ふと、祖父母が手をふって見送ってくれた情景が目の前に広がったのです。
これには驚きつつ、あー、記憶は消えずに残るんだなと、自然と涙が出てきました。
また来るねってもう言えないけど……今までありがとうね。
…
今では、両実家から我々が帰る時、両親たちが玄関から出てきて、我々の息子たち(孫)に名残惜しそうに手をふります。息子たちは笑顔で手をふり返してバイバイ。あの頃私が見た情景のように、こうやって思い出はバトンされていくんですね。
いつまでも終わらない訳ではないけど、出来る限り続いてほしいし、この瞬間がいつか息子たちの大切な思い出になってほしいなと思います。
そんな年始のファミリーヒストリーのお話でした。
たまにはしっぽりと。来週はもうちょいくだけた話にしよっかな。
ここまで読んでくれてありがとう。また来週。じゃあの。